思い入れがあるということ

DQMJに関して一つ。
これはもう完全に個人的なことだけれど、DQMJの前作、前々作からの今回への
流れが、GBのゼルダの伝説夢を見る島からGBAのふしぎなぼうしへの流れと似て
いるなーと感じた。
これら2作はどちらも続編でグラフィック面が非常に進歩している。
このビジュアル的な進歩は、確かに見ていて楽しいし気持ちいいものがある。
あるしその流れは必然とも言えることなので別に否定する気は無いのだけれど、
何かこう視覚で多くの情報が得られる分、脳内で補完する必要性が少なくなっ
てきたと感じる。
そして脳内で何らかの補完をしなくなると、その作品に対して持つイメージに膨
らみがでなくなってしまうので、思い入れもそこまで入らなくなってしまう
と僕は思う。
もっと言うといかにそのゲームが脳裏に焼きつき思い出に残るかと言うことの
重要なポイントとして、いかに自分がそのゲームに関して妄想し、入り込み、
脳内補完をしたかという点が大きなウエイトを占めたり占めなかったりなんじゃ
ないかと思うのだ。
この考えには「一人でもくもくとやったゲームに対して」という前提をつけない
といけないかもしれない。
何故なら、ゲームに対する思い入れって今述べたことだけが理由になるわけじゃ
なく、友達とやって楽しかったとか、大好きなキャラクターがいたとか、技術向
上に励んだのが良かった、そういうのも大いにあると思うから、やはり一人でプ
レイしたある程度妄想の余地がある作品に対しての考察、ということになるんだ
ろうなぁ。だってテトリスじゃあまり妄想できないしそういうゲームでもないし
ね。あ、しようと思えばできなくはないか。ブロックを擬人k・・・なんでもな
いです。 
 
それでも僕の頭の中では、今でも夢を見る島の妄想が広がってて、きっとそれは
今の僕を形成する大事な要素の一つで、そして、今でも1番好きなゲームです。